Aide-Memoire

主に僕の日常。

20190215

映画『何者』を観た。

就活って、そんなどろどろとしたものなのかね。

自分は何者なんだろう。

何者になることができるのだろうか。

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自分という存在は確かに唯一無二かも知れないけど、自分の完全上位互換は世の中多く居る訳で。

自分が今やっていることは、自分ではない誰かがやっても一定程度同じアウトプットを産出できて、そこに自分である意味があるのかと問われれば明確に肯定できる自信と、それを裏付ける根拠が見当たらない。

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自分の代わりなんていくらでもいる。

完全上位互換なんて、沢山いるんだ。

 

20190208

世間は明日から3連休ということで、街中もなんだか賑わって見えます。

当方は今日から3連勤ということで、心中がなんだかくぐもって見えます。

なんて。

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世間はバレンタイン色が濃く出ており、買い物に行けば特設ブースなりなんなりが目を引きます。

なんだかんだ言って例年はバレンタインにご縁があって、イベントがイベントとして機能してきました。

今年はどうなることやら。

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これは昨日の話ですが、論文の口述試験(口頭試問)が行われました。

論文のオリジナリティとか、そういうのを聞かれる儀式的なあれです。

自分が執筆した論文については、師事していた教授陣がまさに専門としている内容だった事もあり、精査を受けてボロクソに叩かれると思っていました。

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文章とは不思議なもので、書き方如何でその先に書かれるであろう出来事を読み手に予測させたり、言外の意図を汲ませたりすることができます。

そうした文章に読み手は安心感を抱き、また退屈さを感じるのです。

僕は何を目指しているんでしょうかね。

20190205

節分は「節を分ける」と書きます。

具体的に何を分けているのか。

その答えは「季節」を分け、「1年」を区切る役割を果たしています。

旧暦では立春から翌年の立春までを1年と数えることもあり、2月3日の節分は、4日の立春に向けた厄祓いの意味を込めて健康を祈り豆を撒くのです。

新しい1年を、無事に過ごすための儀礼であり、そうあることが究極的な目的ということになります。

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昨年の僕は後厄でした。

旧暦で数えて、昨日4日に厄を抜けたことになります。

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正直厄がどうとかは分かりませんが、人間は不都合が起きた際の合理化を、内因性で自己由来のものであったとしても外部に転嫁することで図ろうとする傾向にあります。

そのようにして自己の保全に走ろうとするのです。

あくまで傾向的に、ですが。

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厄が抜けたので、旧暦でも新しい1年が始まりました。

この1年を、僕はどんな風に過ごすのでしょうか。

恐らくその答えを知る者はどこにも居ないのでしょう。

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青年期を描いた小説などの作品においては主人公が自身の過去と決別し前に足を踏み出す様が頻出し、恰もそれが美徳であるかのように表現されているものが散見されます。

しかし、そうあることが美徳であるとされる根拠は何でしょうか。

美徳の根拠と判断基準は、誰がどのような枠組みで決定づけるのでしょうか。

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現代の社会学において、若者は"他人志向型"であると言われています。

これはアメリカの社会学者リースマンによる社会的性格の3類型の1つです。

他者から認められることが精神的充足に繋がるため、他者との協調に重点を置き、同時代人の意向に沿うように自己の意思決定を行うことが特徴とされています。

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このような観点からすれば、承認欲求に突き動かされて行動を起こす人々は他人志向型の典型であり、そうあることに善し悪しはないものの、少し上滑りな人生を送っているように見えてしまうことがあります。

別に小難しい文章を書きたいわけではありません。

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前回記事では、心情を吐露する予告をしましたが、思考を重ねるにつれて表出することの無益さが僕に訴求してしてきたので、控える方が順当なのでしょう。

極度に他人志向型になっていないだろうかと、顧みる時間があっても良いのかも知れません。

美徳とされるか否かに拘わらず、自分の人生、自分で機嫌をとって思うようにやっていきたいものですね。

 

20190122

この記録を更新しなくなってから2ヶ月ぐらいが経ちました。

旧年中は大変お世話になりました。

 

この数ヶ月で変わったことは色々ありますが、その中の1つは修士論文が書き終わったことでしょうか。

厳密には、提出期限に間に合うように終わらせたが正解ですが。

研究は思うようには進みませんでした。

そもそも、いや、ここで書いても何のメリットもないので省きますが、僕は僕なりに色々としんどい思いをしたので、まぁそれは自らが蒔いた種ではあるんですが、多方面にわたりそれなりの苦労は経験しました。

後日口頭試問が待ち構えているので、適当に頑張ろうと思ってます。

 

他に変わったことと言えば、筋肉量も挙げられます。

ドMの自覚はありませんが、バイト等を通じて圧倒的に筋肉量が増加しました。

食事制限は相変わらず続いていますが、ゴリラになる予定もないので、駄肉が削がれる形で身体は無駄に健康です。

 

少しずつ、色々なことが変わって、それに伴って多岐にわたる変化を経験し、心身を成長させているというのが現状でしょうか。

過去を振り返ればそこには弱い自分の姿があります。

ちょくちょく立ち止まってしまうし、振り返ることもありますが、それでもなんとか前を向こうと日々を過ごし、辛うじて生きています。

自己の存在を忌々しく思うこともありますし、生きていることを辞める選択はいつでも出来るはずなんですがね。

 

本稿においては綺麗な自分の姿で物を書きたいと思ったので、次稿ではもう少し生々しい心情を書こうかと思うものの、これを記すことの利益はどこにもない気がするので、そこが難しいところですね。

気が向いたら書こうかと。

 

20181115

 

いつかまた会う日が来たら

その時は成長した自分を見せたいと思っていた

成長して魅力的な人間になって

また隣に立つことができたら

 

身を滅ぼしたい感情に支配されながらも

この約3ヶ月はそういう気持ちで過ごしてきた

 

でも

自分があの人を苦しめた事実に変わりはない

どれほどつらく苦しかっただろう…

大好きで愛している人にこんな思いをさせてしまったことを

僕は真摯に受け止め向き合わなければならない

 

こんな形で離れることになってしまうなんて

 

 

 

僕が狂ったように好きでいるあの人は

本当に素敵な人間です

別れて時間が経ってもこんなにも僕が気持ちを抑えられていないほど魅力的な人間です

 

何がなんでも幸せになって欲しい

お前には関係ないし他人だろと言われても構わない

僕があの人の不幸災厄全てを背負うから

あの人だけはきっと幸せにしてください

 

僕がこんなことを言うのは烏滸がましいと分かっています

本当は僕と幸せになって欲しかったなんて

僕に人を愛する喜びを教えてくれた人

僕に生きる価値を与えてくれた人

 

本当に大好きです

ごめんなさい

 

 

 

 

 

20181102

友人からクリスマスプレゼントの相談を受けた。

彼女にあげるクリスマスプレゼント、何がいいと思う?的なやつ。

彼女さんのことを知らない僕らに聞くより、本人に直接聞いてみたらいいのでは?と。

一般的に良しとされるものが、貰い手にとって必ずしも喜ばしいものである保証はない。

サプライズ感を出したいなら、相手の趣味嗜好を考慮して自分で決めたらいいのでは?と。

 

彼の場合、全くもって彼女自慢をする意図は持ち合わせていない。

純粋に悩むが故に、彼はこの手の助言に対し苛立ちを感じていた。

少なくとも僕にはそう捉えられた。

 

とかいうどうでもいい話を書く場所だっけ、ここ。

 

自分だったら何をあげるかな?

ふと、そう思った所で思考は停止。

クリスマスプレゼント、か