20180907
思考がどうしても負に陥ってしまうことが多々ある。
というか、基本そうなのかも知れない。
かの有名な文豪某氏は、その人生の中で4度程自殺未遂を行った。
勿論その4回は未遂に終わったものの、道連れの相手は毎度のように亡くなっている。
僕は道連れなどは欲しくない。
死ぬ時は1人で悟られないように消えたい。
死ぬとか自殺とか、そういうことを文章化しているうちは本体は死なないような気がする。
文字が本体の身代わりになっているような感覚があるからだ。
思考が負に陥った時は、精一杯の負のエネルギーを奮い立たせて夜の街に出ている。
街と言っても幸か不幸か、僕は夜の遊びを知る訳でもないので只管街を走っている。
それはもう、どんなに醜い姿になろうがなりふり構わず走る。
メンタルがどん底にまで堕ちるような曲を流しながら只管走る。
悲しさや悔しさ、後悔などの強い感情と共に走る習慣が戻ってきただけだ。
悔しさから我が身を案じず走るというある種の自傷によって、一時的に目の前の感情から気を逸らす術を身に付けてしまった過去から、何ら逃れられていないことに気付き思考は更に負に陥る。
でも、僕は成長すると決めた。
決意を易々と翻すような人間に進んでなりたいとは思わないだろう。
成長したその先に、自分が目標とする立ち位置が待っていて、そこでその人が待ってくれているかなんて、勿論分かるはずもなければこのような期待はどちらかと言うと空論である。
しかし、僅かであっても可能性があるのなら、可能性が0でないのであれば、それに賭けてみるのも悪くは無いのではないかと思ってしまう自分がいるのも事実。
まぁ正直、その可能性もほぼ0に近いのかもなと思わなくもないけど、。
この時間にこうして外で文章を書いていれば多少なりとも頭も冷える。
今日はここまでにしよう。
明日は研究に向き合わねば。