Aide-Memoire

主に僕の日常。

20190205

節分は「節を分ける」と書きます。

具体的に何を分けているのか。

その答えは「季節」を分け、「1年」を区切る役割を果たしています。

旧暦では立春から翌年の立春までを1年と数えることもあり、2月3日の節分は、4日の立春に向けた厄祓いの意味を込めて健康を祈り豆を撒くのです。

新しい1年を、無事に過ごすための儀礼であり、そうあることが究極的な目的ということになります。

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昨年の僕は後厄でした。

旧暦で数えて、昨日4日に厄を抜けたことになります。

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正直厄がどうとかは分かりませんが、人間は不都合が起きた際の合理化を、内因性で自己由来のものであったとしても外部に転嫁することで図ろうとする傾向にあります。

そのようにして自己の保全に走ろうとするのです。

あくまで傾向的に、ですが。

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厄が抜けたので、旧暦でも新しい1年が始まりました。

この1年を、僕はどんな風に過ごすのでしょうか。

恐らくその答えを知る者はどこにも居ないのでしょう。

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青年期を描いた小説などの作品においては主人公が自身の過去と決別し前に足を踏み出す様が頻出し、恰もそれが美徳であるかのように表現されているものが散見されます。

しかし、そうあることが美徳であるとされる根拠は何でしょうか。

美徳の根拠と判断基準は、誰がどのような枠組みで決定づけるのでしょうか。

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現代の社会学において、若者は"他人志向型"であると言われています。

これはアメリカの社会学者リースマンによる社会的性格の3類型の1つです。

他者から認められることが精神的充足に繋がるため、他者との協調に重点を置き、同時代人の意向に沿うように自己の意思決定を行うことが特徴とされています。

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このような観点からすれば、承認欲求に突き動かされて行動を起こす人々は他人志向型の典型であり、そうあることに善し悪しはないものの、少し上滑りな人生を送っているように見えてしまうことがあります。

別に小難しい文章を書きたいわけではありません。

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前回記事では、心情を吐露する予告をしましたが、思考を重ねるにつれて表出することの無益さが僕に訴求してしてきたので、控える方が順当なのでしょう。

極度に他人志向型になっていないだろうかと、顧みる時間があっても良いのかも知れません。

美徳とされるか否かに拘わらず、自分の人生、自分で機嫌をとって思うようにやっていきたいものですね。