Aide-Memoire

主に僕の日常。

20190310

昨日の話。

起きたら左耳が痛くて、しかも耳奥を針で刺されるような鋭い痛みだったので「これは中耳炎や…」と思いつつ。

中高の後輩で工学系に進学した子が卒業制作展の講評会で委員からベタ褒めされる予定だったので、それを観に行ってあげようと思っていた。

3歳下の後輩。

同じ大学だったとしても1年と4年では殆ど関わりを持たないであろう。

他の後輩であれば、わざわざ卒展を見に行こうとは思わないかも知れない。

その後輩は土木工学系でまちづくりの一分野であるランドスケープ論の専攻だったので、興味を惹かれたというのがある。

馴染みのない人も多いだろうが、わかり易く言えば「景観まちづくり」であり、語弊はあるが例えば京都のまちづくりなんかは代表的な例であろう。

寺社仏閣を中心とした風情ある街並みを保護するために、京都市では屋外広告条例を制定し屋外広告(お店の看板など)に使用出来る色彩を限定している。

 

このように、景観の視点から進めるまちづくりのあり方を景観まちづくりと言う(そのままだけど)。

景観の保護という視点も重要ではあるが、これからのまちをどうデザインしていくかという視点も求められる。

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僕は僕でまちづくり研究者の端くれ。

主軸とする分野こそ違えど、後輩の卒展には興味があったので、別日にでも行くことにしよう。

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さすがに耳の痛みが強かったので、卒展には行かず病院へ。

花粉の飛沫が著しいこともあり耳鼻科は長蛇の列だった。

診察の結果、やはり中耳炎。

医者に「これは痛かったでしょう」と言われたが、先生、今でもめっちゃ痛いんで早く薬を処方して…というのが内心であった。

帰宅すると母が珍しく「もう寝たらいいんでね」と言ってきたので寝ることにした。

起きたら就寝から16時間経っていて、うわぁぁぁという気持ちになりつつ予定もないしまぁいいかと今に至る。

 

本当は色々と書きたいことがあったけど、中耳炎の話に持って行かれたので本稿はここまで。

 

20190301

2月が終わり、3月を迎えた。

今日のバイトではSさんが「平成最後の2月が終わる…」と嘆いていた。

学生最後の春休み、過ぎ行くのが妙に早い。

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今月は出費が嵩む。

修了準備、就職準備、就学準備。

いわゆる卒業旅行とやらには縁が無いので、個人的に弾丸の旅に出る予定がある。

旧友に会う一人旅だけどね。

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3月を迎えた、ただその事だけが重くのしかかって来る感覚を拭い切れない。

そりゃ勿論、3月に入ってからまだ2時間と経っていないけどさ。

 

思った以上にやりたい事がやれていない現実に思った以上の焦りを感じる傍ら、無常に過ぎ行く年月。

春、か。

僕の人生は大器晩成だと思っているし、そう考えないとやってられない感は否めない。

いつか僕の人生にも、春が訪れますように。

 

なんて、願っているうちは来るものも来ないのでしょう。

 

20190218

あれから半年か…なんて考えてしまった。

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今日は8時から22時までバイトだった。

5時間残業とか、こうして会社に社畜が飼われていくんだなぁとか思った。

明日も明後日もバイト。

バイトばっかりだな、ほんと。

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元気にやっていますか。

僕の方はなんとかやっています。

論文もなんとか受理してもらえそうな感じで、3月の何日かには院を修了する予定です。

4月からは内定先にそのまま就職になるのかな。

仕事をしながら、学生をやろうと思っています。

君には1度相談したことがあったから、なんとなく覚えているかもしれないけど。

最終的な進路の方針が以前よりは少し具体性を帯びたので、そういう道に進めるように事を運んでいきたいと考えています。

仕事もプライベートも、適度に充実させながら健康に留意して生きていってくださいね。

そんなこと、お前に言われなくてもそうしてるわって話だろうけどさ。

遠巻きながら、君が多幸であることを願っております。

若い時は多少の無理は必要かもと思い直したので、限度を考慮した上で適度に日々を過ごして欲しいなぁ…

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何を書いてるんだろうね。

明日もバイトなんだから早く寝ないと。

 

20190215

映画『何者』を観た。

就活って、そんなどろどろとしたものなのかね。

自分は何者なんだろう。

何者になることができるのだろうか。

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自分という存在は確かに唯一無二かも知れないけど、自分の完全上位互換は世の中多く居る訳で。

自分が今やっていることは、自分ではない誰かがやっても一定程度同じアウトプットを産出できて、そこに自分である意味があるのかと問われれば明確に肯定できる自信と、それを裏付ける根拠が見当たらない。

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自分の代わりなんていくらでもいる。

完全上位互換なんて、沢山いるんだ。

 

20190208

世間は明日から3連休ということで、街中もなんだか賑わって見えます。

当方は今日から3連勤ということで、心中がなんだかくぐもって見えます。

なんて。

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世間はバレンタイン色が濃く出ており、買い物に行けば特設ブースなりなんなりが目を引きます。

なんだかんだ言って例年はバレンタインにご縁があって、イベントがイベントとして機能してきました。

今年はどうなることやら。

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これは昨日の話ですが、論文の口述試験(口頭試問)が行われました。

論文のオリジナリティとか、そういうのを聞かれる儀式的なあれです。

自分が執筆した論文については、師事していた教授陣がまさに専門としている内容だった事もあり、精査を受けてボロクソに叩かれると思っていました。

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文章とは不思議なもので、書き方如何でその先に書かれるであろう出来事を読み手に予測させたり、言外の意図を汲ませたりすることができます。

そうした文章に読み手は安心感を抱き、また退屈さを感じるのです。

僕は何を目指しているんでしょうかね。

20190205

節分は「節を分ける」と書きます。

具体的に何を分けているのか。

その答えは「季節」を分け、「1年」を区切る役割を果たしています。

旧暦では立春から翌年の立春までを1年と数えることもあり、2月3日の節分は、4日の立春に向けた厄祓いの意味を込めて健康を祈り豆を撒くのです。

新しい1年を、無事に過ごすための儀礼であり、そうあることが究極的な目的ということになります。

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昨年の僕は後厄でした。

旧暦で数えて、昨日4日に厄を抜けたことになります。

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正直厄がどうとかは分かりませんが、人間は不都合が起きた際の合理化を、内因性で自己由来のものであったとしても外部に転嫁することで図ろうとする傾向にあります。

そのようにして自己の保全に走ろうとするのです。

あくまで傾向的に、ですが。

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厄が抜けたので、旧暦でも新しい1年が始まりました。

この1年を、僕はどんな風に過ごすのでしょうか。

恐らくその答えを知る者はどこにも居ないのでしょう。

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青年期を描いた小説などの作品においては主人公が自身の過去と決別し前に足を踏み出す様が頻出し、恰もそれが美徳であるかのように表現されているものが散見されます。

しかし、そうあることが美徳であるとされる根拠は何でしょうか。

美徳の根拠と判断基準は、誰がどのような枠組みで決定づけるのでしょうか。

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現代の社会学において、若者は"他人志向型"であると言われています。

これはアメリカの社会学者リースマンによる社会的性格の3類型の1つです。

他者から認められることが精神的充足に繋がるため、他者との協調に重点を置き、同時代人の意向に沿うように自己の意思決定を行うことが特徴とされています。

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このような観点からすれば、承認欲求に突き動かされて行動を起こす人々は他人志向型の典型であり、そうあることに善し悪しはないものの、少し上滑りな人生を送っているように見えてしまうことがあります。

別に小難しい文章を書きたいわけではありません。

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前回記事では、心情を吐露する予告をしましたが、思考を重ねるにつれて表出することの無益さが僕に訴求してしてきたので、控える方が順当なのでしょう。

極度に他人志向型になっていないだろうかと、顧みる時間があっても良いのかも知れません。

美徳とされるか否かに拘わらず、自分の人生、自分で機嫌をとって思うようにやっていきたいものですね。

 

20190122

この記録を更新しなくなってから2ヶ月ぐらいが経ちました。

旧年中は大変お世話になりました。

 

この数ヶ月で変わったことは色々ありますが、その中の1つは修士論文が書き終わったことでしょうか。

厳密には、提出期限に間に合うように終わらせたが正解ですが。

研究は思うようには進みませんでした。

そもそも、いや、ここで書いても何のメリットもないので省きますが、僕は僕なりに色々としんどい思いをしたので、まぁそれは自らが蒔いた種ではあるんですが、多方面にわたりそれなりの苦労は経験しました。

後日口頭試問が待ち構えているので、適当に頑張ろうと思ってます。

 

他に変わったことと言えば、筋肉量も挙げられます。

ドMの自覚はありませんが、バイト等を通じて圧倒的に筋肉量が増加しました。

食事制限は相変わらず続いていますが、ゴリラになる予定もないので、駄肉が削がれる形で身体は無駄に健康です。

 

少しずつ、色々なことが変わって、それに伴って多岐にわたる変化を経験し、心身を成長させているというのが現状でしょうか。

過去を振り返ればそこには弱い自分の姿があります。

ちょくちょく立ち止まってしまうし、振り返ることもありますが、それでもなんとか前を向こうと日々を過ごし、辛うじて生きています。

自己の存在を忌々しく思うこともありますし、生きていることを辞める選択はいつでも出来るはずなんですがね。

 

本稿においては綺麗な自分の姿で物を書きたいと思ったので、次稿ではもう少し生々しい心情を書こうかと思うものの、これを記すことの利益はどこにもない気がするので、そこが難しいところですね。

気が向いたら書こうかと。